「あずまんが大王」から「女子無駄」へ 日常系からコメディへの流れを考える
内容についてはタイトル通りである。
それほど大きな変化ではないのかもしれない、そもそも日常系(空気系とも言う)はコメディ作品なので明確な境目はない。
なのでしっかりした結論がある訳ではない、というのを前提に読んでいただけるとありがたい。
まず「日常系」の定義からしなければいけないのだが、wikiを見ても定義が定まっていない。
登場人物、とりわけ若い女性キャラクター達の会話を軸に、大きな事件や出来事を伴わない何気ない日常を淡々と描写している点が特徴とされる
個人的な定義として以下の三点を挙げる。
- 異性恋愛の排除
- キャラクターが成長しない
- ほのぼのとした笑い(可愛さをそこなわない程度の笑い)
日常系の代表作として『らき☆すた』『けいおん!』辺りが挙げられるだろうが、個人的な日常系の変遷は『あずまんが大王』から始まり『みなみけ』で完結している。最強の日常系『のんのんびより』により少しばかり再熱したが、それ以上に踏み入る事はなかった。
そして久々に観たのが問題の『女子高生の無駄づかい』である。
これを日常系と呼んではばかりのない人間(特に『あずまん』や『けいおん』を愛した者)はそれほど居ないのではないだろうか。
確かに日常系の要素は含んでいる。前述のwikiの説明や個人的な定義である異性愛の排除・成長しないキャラクター・ほのぼのとした笑い……ん? 少し違和感があった。
この記事で注目したいのはここである。日常系とコメディとの違いをあえて挙げるなら「より笑いを重視したもの」と考えて貰えるとありがたい。
それまでの日常系と違い、ボケや突っ込みが存在し、笑いとしての起承転結がハッキリしている。計算されたようなオチがあり、キャラクターの感情の起伏が激しかったり誇張された表現を含んでいる。
これらの要素は日常系の中には余りなかったのではないだろうか。あったとしてもそれほど重視されなかったはずだ。
では次に、その原因について考えてみる。思い付いた範囲なのでそれが当たっているかは分からないという前提で、だ。
- 日常系への飽き
- 美少女のインフラ化
- SNSとそれを使いこなす人の発達により、美少女の消費からネタの消費へと変わった
まず1から述べる。
日常系の笑いは残念ながらそれほど幅の広いものではない。何気ない日常をモチーフとしており、そこに可愛いキャラを配するという形を取る為に思い切った表現はしづらい。
『日常』という作品もあったが、あれはタイトルによって日常系のていを装っただけの意図的なコメディ作品である。
なのでそういった作品が量産されれば自ずと飽きは来る。日常系という型はそれほど多様なものを内包できないのだ。
女の子の可愛さを見せるというのがこういった作品の根底にある以上、変顔をしたり激しい突っ込みをしたりという表現が取れない。実はそれだけ制限された表現の場が日常系だと言い得る。
(その結果として『モンスター娘のいる日常』という色々な意味でキメラな作品が登場したのかもしれない。あ、でもあれは日常系ではなくラブコメだった)
次に、2.美少女のインフラ化。
日常系は女の子キャラクターの可愛さを楽しむものだと考えていい。中には百合として見ている方もおられるだろうが、本質的には変わりないと思う。
それまでにも美少女キャラというのはそれなりに居たと思うが、日常系により更にその数は増えた。『エヴァ』を思い出して貰えば分かるかもしれないが、メインヒロインは二人だ(もちろんミサトさんやリツコ・マヤもヒロインとして認めるが、それでもせいぜい五人)。それに当然の事ながら男のキャラクターも多く存在する。
対して日常系は『あずまん』で六人、『らきすた』はメイン四人だが背景やサブキャラを含めると十人。『けいおん』は五人だが、そもそも女キャラしか登場しないから露出頻度が高い。
日常系を観るという事は美少女キャラを観賞するのと同義なのだ。むしろ他に見るべきものはない。
更に「キャラクターの顔が同じ問題」というのも挙げておく。ただしこれは『あずまん』の時にはまだ見られなかった現象だ。
美少女キャラが溢れた結果、それが当然の事になった。インフラ化してしまった。なら次にどういう事が起こるか?
最後の三点目に行きたいと思う。
アニメを観るという行為は個人的な行為であるが、同時に感想を言い合ったりする共有の物でもある(このブログもそうだ)。
更にSNSの発達とそれを使いこなす人によってコンテンツの消費のされ方が変わったのだろう(お茶の間に戻ったと言うべきか)。ニコ動やツイッターで同時に意見を言い合ったり、考察や展開予想をし合ったりもする。
個人的な体験から共有して消費されるコンテンツになった。当然アニメもその中にある。
その結果として共有されやすいものが選ばれるようになった。「可愛い」を共有するより「面白い」「笑える」の方が共有しやすいのだ。美少女アニメより美少女によるコントの方が女性も楽しめるし見所が分かりやすい(『女子無駄』のキャラが美少女キャラであるかどうかは分からないが)。
そして先のインフラ化の結果どうなるか? である。美少女であるのが当然となった世界で、じゃあその美少女たち個人個人には何が出来るの? と問われる事になってしまった。
この現象はVtuberで考えて貰えると分かりやすいかもしれない。
今もかなり増殖しているであろうVtuberだが、その顔には一定のパターンがあると思う(例外は除く)。恐らくVtuberのファンの人たちは彼ら(彼女ら?)のビジュアル的な細かな差異を重視してはいないだろう。
では何を重視しているか? 中身だ。
見た目が並列化した結果、話す内容やリアクション等の人間的な部分を注視するようになった。これは美少女キャラにも同じ事が言えるのではないだろうか。
思ったより文章が長くなった。
これらの分析が当たっているのかは分からない。変化だと個人的には思っているが、ただの最適化だったのかもしれない。
(ゼロ年代に『女子無駄』のような作品が出てもヒットしていた可能性がないとは言えない)
それでも一応、何かが変化している兆しとしてとらえたい。良し悪しではなく、何かの変化の証なのだ。
そう言ってこの記事をしめておく。