フィクションはどこまでフィクションか
気になる内容だったので取り上げてみる。
このように思ってしまう原因を三つ挙げてみたい。
(ちなみにこの三つ挙げるというのは思考の癖や習慣みたいなもので、中には無理やり引き出したものもある)
フィクションが現実の一部と化している
今の社会はどこも情報で溢れている、そして人が情報として好む方法はフィクションだ。昔話や口伝の物語のように人はフィクションと共に生きてきた。
なので現在の社会の中でフィクションに触れずに生きて行く事はもはや不可能だろう。
そして思うのが、人一人とフィクション上の登場人物はどちらが存在感が大きいのだろう、という事だ。それも特に知らないような通行人と有名な作品の主人公とではどちらが?
知らない人とでも同じ作品が好きだと急に仲良くなれたりする、そんな時にフと疑問に感じてしまうのだ。生きている我々よりもフィクションの方が存在感があるのではないか、と。
少々強く言い過ぎた。ここで言いたかったのは、フィクションは現代人の生活の一部であり、切り離す事が出来ないものである、という事だ。
いやいや、でもフィクションと現実の区別はつくぞ! と言いたくなるのも良く分かる。これは個人的な意見だが、リンク先のような事を言う人はそれほどフィクションに触れていない、いわゆるライト層の人に多いと思う。
別にそれが悪い訳ではない。誰もが最初はライト層やにわかで、そこから社会的には認められない修練を積んで一人前のオタクになって行く(大半はそうならないが、それで良い)。
そういったフィクションを過剰摂取してしまった人間は、フィクション上の些細なこと(と感じてしまう)には気が付かない。むしろもっと大きな刺激を求めてしまう傾向にあるからだ。こっちの方が問題かもしれない。
犯罪に対する忌避感
フィクション内の行動が現実の行動と変わらないのなら、犯罪行為に対して嫌悪感を抱くのも理解できなくはない。そういった犯罪を憎む人たちによってこの社会は守られている。……のだろうか?
どちらかというと2.の問題の方が引っ掛かる。犯罪に対する忌避感、潔癖感と言ってもいい。
人は多かれ少なかれ罪を犯しているものだ、信号無視や法定速度違反。自転車の左側通行等、挙げればキリがない。なのにどうしてそこまで細かくこだわってしまうのか?
この疑問に対する答がいくつかある。
まず教育、親や影響力の強い相手に犯罪に対する怒りや憎しみを刷り込まれた。
次にそういう人が居た。きっと嫌いな奴だったのだろう、犯罪やルール違反をした人物がその嫌いな奴と被って見えてしまう、重ね合わせて見てしまう。
最後の理由は3.へ行く。
人は人を分ける生き物。
人は社会的動物と言われる。それは社会というものが存在する訳ではなく、それぞれ個人の中に社会と思われるものが存在している。と、ややこしいのでこの辺りははぶく。
人は社会的価値の他に個人的価値というものを持っている。だから社会的には価値の高い人でも叩かれたり炎上したり、社会的価値の低い人でも幸福に生きれたりする(もちろん逆もある)。
この個人的価値というもので人は人を推し量っている。これは別に悪という訳ではない、むしろそうせずに社会の価値が一元化してしまったら世の中は犯罪で溢れてしまうだろう。
例を挙げるとお金だが、お金を持っている事が唯一の価値になれば誰もがそれを奪い合う為にあらゆる手段を尽くすだろう。そうならないのはお金以外に道徳や幸福といった価値が存在するからだ。
ただこの個人的価値というのもやっかいで、他者を推し量るのみではなく、それ以上に受け付けない何かを持つ場合がある。
物を食べる時にクチャクチャ音を立てる、なんていうのが分かりやすいだろう。これは別に犯罪ではない、生きる上でも問題はないだろう。無人島で食べ物がなくて、その人が必死で見つけてくれた食べ物を分けて食べる時にクチャクチャ音を立てた。それだけで嫌いになるのだろうか?
言いたいのは、生存的に不必要であったり無関係な事でも他者を受け入れられない事、ルールというのを人は持つものなのだ。
今回の話に戻すなら、交通違反や交通マナーの話になるのだろう。
何か説明不足な感はあるが、これで筆を置きたいと思う。筆じゃないけど。
とりあえず見出しの使い方は分かった。