体験する聖地としての「ゆるキャン△」
少し前から気になっていたこの作品、魅力が少し分かった気がするので書いてみる。
この作品が好きな方とその気持ちを共有する記事ではないのでそれは先に言っておく。かと言ってディスるつもりもないんだけれど。
しかし作品内容にはほぼ触れないので、そのつもりでお付き合い頂けるとありがたい。
聖地の意味
アニメには聖地というものが存在し、それはほとんどの場合その作品世界の舞台となった場所・取材に使われた場所である。
一昔前はアニメの聖地という言葉が笑いや揶揄と共に使われていた記憶がある。その理由として挙げられるのは聖地という言葉だ。
聖地とは、宗教的に重要な意味のある場所、神聖とされている場所のことです。
そもそもがお堅い言葉をサブカルであるアニメに対して使うという、少し自虐じみた使われ方をされていたと記憶している。
しかしその言葉が普通に使われ、そしてなぜか浸透した結果、こういったサイトが次々と生まれるに至る。
面白い現象だ。
体験する聖地
もちろんこの『ゆるキャン△』という作品にも聖地は存在する、主にキャンプ場のようだが、
- 浩庵キャンプ場
- ふもとっぱらキャンプ場
- 高ボッチ高原山頂付近
- パインウッドキャンプ場
- ほったらかしキャンプ場
- 四尾連湖/水明荘
- 陣馬形山キャンプ場
- 富士山YMCAグローバル・エコ・ヴィレッジ
聖地巡礼としてこのキャンプ場へ行くのもいいだろう、何なら同じようにキャンプ体験するのも良し。というか、重要なのは後者ではないかと思うのだ。
つまり、取材先の場所へ行く事ではなく、アニメのキャラクターたちがした行為を自分たちもすること。アニメの中であった体験を自分もして、その時の感情を共有すること。そっち方が大事になっているんじゃないだろうか。
聖地が場所ではなく体験になっている、それがこの作品における一つのポイントだったのではないか? そんな風に思えて来た。
そんなの当たり前でしょ? という声も聞こえて来そうだ。そんな人はこのオッサンオタクより一歩先を行っている、羨ましい。
「物消費から事消費へ」何て言葉が言われ出して何年経っただろう、頭では分かっていても実感として捕らえるのは中々難しいものなのだ。
作品は作品
もちろん作品そのものを愛する事を否定するつもりはない。キャンプ地に行かなくてもキャンプをしなくても、作品を愛する人が居てもいいのは当然だ。むしろそっちの方が個人的には納得が行く、同胞なんて言葉も浮かぶ。
しかしまぁ、違った楽しみ方をする人が増えてきたと知っておくのも悪くはない。何なら自分もやろうという計画を立てるのも一興だ。実際に旅行に行かなくても旅行の計画を立てるだけで楽しい気分になって健康にいい、なんて記事をどこかで読んだ気がする。アニメの見方も変わるだろうし。
時代の変化と共にオタクのあり方も変わりつつあるのかもしれない。
こんな話題なのになぜかしんみりしてしまった。ちょっと疲れているのだろう、ここまでとする。