アニメ「啄木鳥探偵處」 5話に登場した短歌の解説
5話は短歌以外にも詩が登場しました。残念ながら分からない短歌もあり全ての解説は出来ませんが、可能な範囲で書いていきます。
まずは啄木の短歌のみを挙げて行きます。
6首目 わがために なやめる魂をしずめよと
「わがために なやめる魂(たま)をしづめよと
讃美歌うたふ人ありしかな」
私の為に悩める魂を落ち着かせようと、賛美歌を歌った人が居た。
今回は序盤にキリスト教にまつわる詩が登場しているので、「賛美歌」という言葉が出て来ても違和感は薄かったのではないかと思います。
実際にこの詩と短歌が同時期に詠まれたのかは不明ですが、上手くつながっていますね。
7首目 あたらしき 洋書の紙の
「あたらしき 洋書の紙の 香をかぎて
一途に金を 欲しと思ひしが」
啄木が英語に堪能であったのは以前に書きました。当時の相場は分かりませんが、洋書も高かったんでしょう。この洋書がどんな匂いなのかも気になるところです。
古本屋にある年代物の本はいい匂いがするんですけどね。
短歌の意味ですが、少し調べるとこんなサイトが出て来ました。
「思ひし」で終らず、「が」を付け加えたことによって、いっそうその口惜しさが伝わってきます。
なるほど、少し歯切れの悪い終わり方だと思ったらちゃんと意味があったんですね。
8首目 大いなる 彼の身体が
「大いなる 彼の身体が 憎かりき
その前にゆきて 物を言ふ時」
これも言葉通りの意味なのかと思っていたら少し違うようです。
<解釈> 主筆の前に行って物を言う時は、どうも気後れしてしまった。トップの主筆の前だから校正係の自分が気後れしたのではない。あの人の身体があまりに大きいせいだ。だからあの巨体が憎かった。
こちらのサイトによると、自分が気後れした理由を隠す為のようですね。社会的立場から気後れした訳ではなく、単純に体が大きいからだ、と。
啄木が働いている姿を見るのはこれが初めてではないでしょうか。仕事をしていた事にちょっと驚いてしまったんですが。
上のサイトによるとここは東京朝日新聞社らしく、大いなる身体の持ち主は池辺三山だそうです。wikiもあるほど著名な方のようなので、興味ある方はこちらをどうぞ。
9首目 ふるさとを 出で来し子等の
「ふるさとを 出で来し子等の 相会ひて
. よろこぶにまさる かなしみはなし」
「子等」になっているのがいいですね。故郷を思う時、人は子供に戻ってしまう、といったところでしょうか。
啄木の歌には故郷を詠ったものがいくつかあるようです。1話で登場した「ふるさとの 訛りなつかし~」もそうですが、調べているともう一つ引っ掛かるものがありました。
今後、登場するかもしれないのでここで挙げるのはやめておきます。
10首目 働けど働けど
「はたらけど はたらけど猶(なお)
わが生活 楽にならざり ぢっと手を見る」
啄木の代表作です。ただ、この作品を見て以前の啄木とはイメージが大きく変わってしまいました。もっと働き詰めの人物だと思っていたので。
それでも啄木の繊細さからこのように感じるのも分らなくはないかな、というところです。図太くも思えますが、プライドの高い人だったのではないかと今は思います。
なのでこの「はたらけど」は労働ではなく自尊心を売る事ではないか、というのが個人的な解釈です。
その他の詩、短歌
5話は他にもあれこれと登場しましたね。ザッと紹介していきます。
憎いあん畜生
「憎いあん畜生は紺屋のおろく、猫を擁へて夕日の浜を、知らぬ顔してしやなしやなと」
北原白秋の詩集『思ひ出』の中の一つ、「紺屋のおろく」。検索すると動画が見つかります、どうやら詩に曲を付けたもののようです。
古いのでポップなものではないですが、興味のある方はどうぞ。
詩の意味ですが、wikiによると、
若者たちの、美しい女への憧憬と反感を交互に歌っている。
好きだからこそ感じる憎さ、といったところでしょうか。
まさしく今回、金田一が啄木に向けた感情はそれでした。啄木もそんな金田一を理解しながらも持て余す、といったところでしょうか。
「邪宗門」
「われは思ふ、末世(まっせ)の邪宗(じゃしゅう)、切支丹(きりしたん)でうすの魔法(まはふ)。(以下略)」
北原白秋『邪宗門』という詩のようです。今回は白秋の詩が二つ登場しています。
作中で言われている通り啄木と白秋は親交があったようですが、公式サイトの登場人物にはその姿がありません。今後、登場するのか少し気になるところですね。
詩の意味についてはこちらのサイトでお願いします。
異国情緒を感じる単語を並べただけ、という気もするんですが、その辺りの評価は専門家に任せます。
作中ではそれが映像化されているのが面白いですね、この詩に慣れ親しんだ人にはどう感じるんでしょうか。
恋愛合戦の短歌
「朝ごとに 必ず同じ浜辺にて 会えば笑いてゆく乙女あり」
「尋ね来れば たまたま友がほろ酔いに 恋嬉しき朧夜の月」
調べても出て来ず、また原作者さんの創作でしょうか?
「酔へばみな 戀(こい)のほこりのせれ言に 涙もまじる若人たちよ」
この短歌はこちらのサイトで調べると出て来ました。
未収録のようですね。しかし「せれ言」の意味は調べても出て来ず。短歌の意味は解説できません。
「猫」
「まつくろけの猫が二疋、なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』」
萩原朔太郎の詩集『月に吠える』に収められた詩、『猫』です。
詩の解説はこちらのサイトにお任せします。
猫の発言は4箇所あり、『(猫語)(人間語訳)』という構成になっていますが、唯一3つめだけが『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』と猫の言葉でしか書かれていません。こうすることで、この猫語の解釈は読者に託されます。解釈のヒントは『ここの家の主人は病気です』という返答。あるいは猫を飼っている方なら、わかるかもしれません。
「おぎやあ」はてっきり赤ん坊の泣き声かと思ったんですが違うようです。これはどういう意味なんでしょう? 猫を飼っていれば分かるんでしょうか。
……しばらく考える必要があるようです。
「殺人事件」
「とほい空でぴすとるが鳴る。またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣裳をきて、こひびとの窓からしのびこむ、
床は晶玉、ゆびとゆびとのあひだから、まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍体のうへで、つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。
しもつき上旬はじめのある朝、探偵は玻璃の衣裳をきて、街の十字巷路よつつじを曲つた。
十字巷路に秋のふんすゐ、はやひとり探偵はうれひをかんず。みよ、遠いさびしい大理石の歩道を、曲者くせものはいつさんにすべつてゆく」
これも萩原朔太郎の詩集『月に吠える』の中に『殺人事件』。
解説はこちらにお願いします。
この詩の中で殺人や死は決して忌避すべきものでなく
むしろ詩の前景として美しく展開されている。
ヨーロッパの街並を舞台に殺人事件という情景を描いた詩ではないか、という解釈です。
なるほど、「私の名探偵」というのもフィクション上に登場する人物のようで、それらの架空の存在が架空の舞台の上で美しい劇を演じている。そんな風に解釈できますね。
それぞれの詩がどうして作中のこの場面で使われているのか? あれこれ考えると面白いところですが、思った以上に記事が長くなってしまったのでここで終わります。