アニメをっち

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「なろう系」の魅力を分析する

 「なろう系」と言うと余り良いイメージを持たない人も多いだろうが、この記事ではそんな「なろう系」の魅力と社会的役割について考えてみたいと思う。

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(C)冬原パトラ・ホビージャパンブリュンヒルド公国

 

 

「なろう系」とは

 先に「なろう系」の定義やテンプレートについて、ニコニコ大百科から引用する。


dic.nicovideo.jp

主なテンプレの例としては

  • 主人公が何らかの理由で異世界へ転生・転移する
  • 序盤で主人公がチートと呼ばれるほどの力を得る。努力を必要としないことが多い
  • ありふれた知識、能力でも異世界では英雄に等しい活躍ができる
  • ゆく先々でヒロインを助けてモテてハーレム作り
  • とにかく作品名が長く、作品名だけで内容がわかってしまうことが多い
  • ゲームの中でもないのにステータスやレベル、スキルなどがある世界観

 

 これらのテンプレートが見受けられる作品を一般的に「なろう系」と呼ぶらしい。なので、同じ「小説家になろう」というサイトから出た作品でも「なろう系」と呼ばれない作品も多く存在する。

 

 では、このテンプレートをいくつかの要素に分解してみる。

 

 

安心感

最強

 テンプレート化しているというのもあるが、それ以上に観る者を安心させているのはチート能力、最強といった属性だ。

 主人公はその世界で絶対に負ける事はない、誰よりも強いのが既に約束されている。その絶対的な信頼感によって視聴者(そして読者)は安心する、敗北や挫折といった辛い側面から解放されるのだ。

 

異世界

 異世界という場所もポイントなのかもしれない。その世界は現実とは違う、ファンタジーの世界だから様々な制約がない。ゲームの中のように許されている場所、自由にしていい場所なのだ。

 

分かりやすいタイトル

 恐らくこれも関係している。タイトルを見れば中身が分かる、そして思ったような世界観や展開を与えてくれる。

 タイトルという保障によって約束された世界観を楽しむ。そんな安心感のある時間を満喫できる。それらは裏切る事がない、もし裏切ればその作品を見なければいい。

 

 ここに意外性や複雑さは存在しないが、果たしてそれは必要なのか? と言われると言葉に詰まる。既に現実社会は十分に複雑で面倒である、なら娯楽の中ぐらい単純で安心感のある物を楽しんでも良いのではないか。『サザエさん』や『ドラえもん』を楽しむように。

 

 

満足感

レベルアップやスキルの獲得

 主人公は戦いの度に成長して行く、そしてその成長はハッキリとした数値やスキルという形で主人公に蓄積される。

 

 ゲームの成長要素は人のモチベを上げるのに適している、とどこかの記事で読んだ(その記事を見つける事は出来なかったが)。数値の視覚化や出来なかった事が出来るようになる。そんな分かりやすい成長要素に夢中になるのは今や子供だけではないだろう。

 大人のゲーマーや資格の取得に勤しむ社会人、そして株や投資といったお金のゲームを楽しむ人間も一定数存在する。

 

 恐らくこれは人の本能に適した形なのだろう。特に最近は見える形の成長を求める傾向が強いと思う。

 

ハーレム

 そしてこれも同じ要素だろう。主人公はとにかくモテる、戦いや一定の努力(簡単に終わる事が多いが)の結果として可愛い女の子が主人公に好意を寄せる。

 しかし主人公は彼女らに一切手を出す事はなく、ただその好意を寄せるハーレムの輪は広がっていく。そのハーレムには人以外の人種や見た目年齢の違い、そして一応性格的な違いがあるが、これは昨今のハーレム物と同じ構造を持っていると思われる。

 

 あえて品のない言い方をすると、女の子の様々な属性を集めて楽しむというコレクター要素だ。エロモン、ゲットだぜ! とでも言っておく(エロモンのモンが何を意味しているのかは分からない)。

 

 

「なろう系」は○である

 安心感があって分かりやすい成長や好みの属性の女の子(好まなくても良い)を手に入れる。それらが読者や視聴者に与えてくれるのは何だろう? 個人的な回答は既に出ている。

 

 「なろう系」は自尊心回復ツールである。

 

 これらの作品を読めばいつでも約束された快楽と満足感を与えられる、それは挫折した人間や挫折を恐れる人間にとってどうしようもなく心の拠りどころになるものだろう。

 それを悪というつもりはない、人には現実逃避が必要なのだ(というか現実を現実のまま生きている人間など存在するのだろうか?)。問題があるとすれば、むしろそういった物を求めざるを得ないこの社会の方に問題があるのでは、と考えてしまう。

 

 ついでに言うと、作品の完成度とその作品がヒットするかは別の問題だ。このブログでは既に何度か言っているがここでも繰り返す。人は完成した作品を求めるのではない、欲しい物を与えてくれる作品を求めるのだ。だから「なろう系」は必要とされて存在している。

 

アンチ最強系の安心感

 ちなみに安心感という点では、「小説家になろう」の中に存在する一つのジャンル、「アンチ最強系」と呼ばれるものにも見られる。

 アニメ化したものでは『盾の勇者の成り上がり』が有名だと思うが、序盤で主人公はこれでもかとおとしめられる、もしくは裏切りに合う。そして最底辺の状態から自分をおとしめた人間に復讐を果たす、という展開のものだ。

 この「アンチ最強系」に含まれているのは、最初こそは弱いけれど、いつか強くなって必ず裏切った相手に復讐を果たす、という約束された物語だ。

 

 最初から最強、いつか必ず最強。

 この二つは互いに一定の満足感と安心感を見ている者に与えてくれるはずである。

 

余談

ポスト根性論(根性論の次にあるもの)

 チートについて触れていなかったのでここで補足しておく。主人公は一切の努力をしない、もしくはある程度の努力でそこから先の努力は免除されている。これらの理由について思い当たる事がある、根性論の終わりだ。

 高度経済成長期かもしくはもっと前からか、この国ではやたらと根性論が持ち上げられた。とにかく努力しなさい、成功しないのは努力が足りないからだ。その価値観が最近廃れつつある。

 一つの原因はバブル崩壊だと思う。努力しても報われない人の数が増えた、努力すれば生活が良くなる時代が終わった。その事に対する努力への不信感だろう。

 

効率主義

 その代わりに現れたのが効率主義だ。努力の仕方を変える、効率を重視して結果を出す。ツール(道具、手段等の意味)なんてのもその中の一つだろう。

 満足感の項目でも書いたが、レベルアップやスキルを手に入れるのが嬉しいのはこれがあるからだ。いつか表れるだろう努力の結果より、直ぐに見て取れる経験値やスキルの方が価値があるように思えるのだ。

 

 そして強さの根源であるチートというのはこのツールという考えを元にしていると思う。努力による強さではなく、そのツールをいかに使いこなすかが重要なのだ。

 つまり強さとは努力の結果ではなく、一定の運と頭の回転の速さや柔軟さによって出来ている。若者のヒーローであるyoutuberやインフルエンサーはこれに当たるのではないだろうか(彼らが努力をしていないと言うつもりはないが、その努力はアスリートのような地道な努力とは毛色が違っているように思う)。

 

 これらの善悪について述べるつもりはない。時代によって人の求めるものは違う、それだけの話なのだろう。