アニメをっち

アニメの感想、持論などを好き勝手に書いております

アニメ「ID: INVADED イド:インヴェイデッド」を哲学する

 軽いネタというか思考実験です。

 きっかけはこの記事。

nlab.itmedia.co.jp

 アインシュタインの名言が素晴らしすぎます。

 

「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」

 

 常識は全て偏見、そこまで断言してしまうのが爽快です。

 なぜ『イド:インヴェイデッド』なのか? という問いに関しては受け付けていません。今、一番ハマってるアニメだから、というぐらいです。 

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(C)IDDU (C)2019「イド:インヴェイデッド」製作委員会

 ※注意 中身のあるような無いような記事です。分かりにくい・読むの面倒臭い! と感じた方はその段階でブラウザバック等を行って下さい。

 別に読み切っても賞金が出たりいい事が起こったりはしません。

 

 

イドの世界

人殺しは悪か?

 生き物は自分の遺伝子を残す目的を持っています。なので同種族が減ると不利になる、だから本能的にストップがかかるんだと思われます。

 縄張り争いやメスの取り合いで起こるいざこざは基本的に相手を殺すところまで行かない。特にこの傾向が強いのは個体数の少ない食物連鎖の上位生物です(人間もそう)。逆に個体数が多いと共食い等、生き残る為に同種を犠牲にする行動が目に付くようになります。

 

 こう仮定すると、愛(性欲)が本能なのと同じように同種族を殺す行為がタブーになるのも本能に組み込まれた事だと思われます。

 

衝動とは?

 社会というのは秩序で、その秩序を保つのにはルールや決まり事が必要になります。なので個人的な欲求やその発露である衝動は制限されなければいけない。

 ルールを重視するというのは社会的生物である人間にとって重要な事である。ただしそのルールは所属する組織によって違うので、反社会的な行為がルールになる場合もあります。

 

同種族や仲間という集まり

 人殺しに対して人はタブー意識を抱く、と書きましたが、それも自分の遺伝子を残すのに十分な仲間や集団があった場合には少し事情が変わってきます。

 他にも自分たちの生存をおびやかすような存在があった場合も同様で、そのタブー意識が弱まる場合があります。

 

 つまり殺人が可能か否かは遺伝子の都合によって大きく変わるという事が言えると思います。仮に小さな集落に産まれ、その中で狩りや採集生活をしていた場合、その仲間を殺す事は食料を安定して得る方法を失う事になり、それは自殺に近い行為となります。

 現代社会で殺人がフィクションの中に溢れているのは同種族が増え過ぎたという背景があるのかもしれません。

 

連続殺人犯

 それでも社会は人の集まりであり秩序を保たなければ崩壊する可能性がある為、殺人はタブーとされる事が多いです(敵討ちが合法であった時代も存在します)。

 なので連続殺人犯は社会の中では危険視されなければいけないし、異常者という扱いをされなければいけない。これは社会的生物である人間の本能でありお約束のようなものです。

 

 しかし戦争時には敵を多く殺した者に報酬が与えられます。前の項で書いた同種族が居る場合ですね。

 それを考えると本当の意味で異常者たりえるのは、十分な仲間や集団を持たないのに人を殺す人間という事になります。

 恐らくそれがこの作品での連続殺人犯に当たるのだと思われます。

 

イドとは……?

 ここまでの前提を踏まえると、イドの世界とは異常者による反社会的行動の源泉だという事が出来ると思います(個人的見解)。

 考えるだけで恐ろしいですね。

 

主人公

復讐

 本作の主人公である鳴瓢は復讐による殺人を行っています。では、そもそも復讐とは何なのか?

 

 人は社会的生物です。基本的にその行動は他者に何らかの影響を与える事を前提に作られているようです。

 進化心理学によると「悲しい」という感情も自己完結するものではなく、相手の同情を買う目的があるようです。一人で居ても表情に出るのはそういう理由があるからだそうです。

 

 だとすると復讐は何を伝える事になるのか? それは再発の防止です、二度とその行いをさせないのが目的になります。

 

過去に生きる

 復讐が再発の防止なら、その目的が果たされた段階で生き物は再び次の生殖に入るものです。しかし、それが出来ない人も居る。

 これが人間の面白いところであり面倒な部分ではあるんですが、人は記憶に固持します。ある時間や空間に支配されてそこから動けなくなる事がままあります。動物として考えると不可解ですね。

 

 原因は人の脳が大きくなり過ぎたからでしょうか? 本能よりも記憶(過去)の方が強くなってしまう。これは遺伝子的にも不合理な行動だと思われます。

 正確な理由はは分かりませんが、個人的にはそんな人を愛しいと感じてしまいます。

 

カエルちゃん

 カエルちゃんは面白い議題を突きつけてくれます。それはこういうものです。

 

「死に続ける死は果たして死と言えるのか?」

 

 会う度に死に様が違っている。前とは違った形で死んで、しかも何かを残している事がある。これは死んでいると言えるんでしょうか……?

 なぜ死と思えないか? それは情報が更新されているからだと思います。つまり生とは情報の更新であるとも言えます。だから死に続ける死は終わっていないと感じてしまう。

 

 しかし情報の更新という意味では、例えば次に会う約束をした人が事故で亡くなってしまった。他にも最終回を迎えずに連載の止まった作品は何か終わっていないものを感じる事があります。

 続きがありそうでない、しかしあると思わせる予感によってまだ生きている、こういう事は割りとあるのではないでしょうか。

 

 死んでいても情報が更新されれば生きている、何かの予感があれば生きている。なら死とは何なのか? 更新と予感がなくなった時、人はようやく死ぬのか?

 死は誰にも体感できない、体感して生き残った人は居ないからです(臨死体験は存在する)。なら死とは死んだ人の個人的体験ではなく、周囲の人間によって作られるものではないか……?

 

 そう考えると他者の死は一義的なものではなく、もしかしたらもっと多様なものなのかもしれません。

 

ジョン・ウォーカー

 ジョン・ウォーカーの目的は今のところ分かっていませんが、連続殺人鬼メーカーという存在から思い浮かぶ事が一つあります。

 ミーム、文化的遺伝子といわれるものです。

ミーム - Wikipedia

脳内に保存され、他の脳へ複製可能な情報である。 例えば習慣や技能、物語といった社会的、文化的な情報である。

 

 今の時代はインターネットもあってかミーム全盛の時代と言っていいかもしれません。誰もが情報を発信し、それを伝えたい・届けたいと思っている。そして現代ではそのミームが現実の生殖より勝ってしまったようにも感じます(個人の感想)。

 

 ジョン・ウォーカーは連続殺人犯を作っている、これをミームだと考える事は難しくないでしょう。殺人という行為や衝動を伝えている。

 しかしこのミームには限界があって、人が居なくなってしまうと伝える相手が居なくなる。しかも自分が殺される場合すらあるでしょう。

 

 今、限界がある、と書きましたが、本当にそれが限界でしょうか? 人は自らの思想の為に命を投げ出したり、死を通して何かを訴えたりする事があります。自爆テロ焼身自殺等がそれに当たるでしょう。

 だとしたらミームによって人が死滅する可能性もあるのかもしれない。これはあくまで可能性の問題です。

 

イド:インヴェイデッドとは?

 ここまでの情報をザッとまとめると、

 

 イドという異常者による反社会的行動の源泉に潜る生殖をやめて過去を生きる男が、死に続ける死を生きるカエルちゃんという存在を助けようと人殺しのミームであるジョン・ウォーカーを探し当てる話。

 

 こんな感じになりました。

 もう少しスッキリした回答が出るかと思ったんですが、思い切りゴチャゴチャしてますね。

 

最後まで付き合って頂いた方に感謝

 久々に哲学してみたんですが、恐らく十年前とは全く違う回答が出たと思います。知識や何を根底に考えるかで哲学は答を変えてしまうようです。

 哲学は学問のフリースタイルや! と良く分からない事を言って話をしめたいと思います。お付き合いいただいた方に感謝。

 

 いや、だから、賞金は出ませんってば。

 でも、いい事があるように祈っておきます(祈るだけ)。

 

 

 

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