アニメ「ダーウィンズゲーム」について思うところを書く
前にも一度、この作品について記事を書いているんですが、今回もその時と同じように内容にはほぼ触れないと思います。それでもあれこれ思うところはあるので、それについてツラツラと書いてみたいと思います。
前の記事はこちら。
殺してもいい存在
この作品に限った事ではないんですが、フィクション上には殺してもいい存在というのがいます。それは罪を犯していたり憎い存在であったり、いわゆる悪と言われるキャラクターがそれに属します。
そしてその対象は、今までの経験によるとスクールカーストの上位であったりヤンキー・今では半グレと言われる人たちになっているようです。
暴力や個人的な都合で人命を弄ぶ人間やその手下。
個人的にもそういう人たちとは一生係わり合いになりたくないと思いつつ、少しだけ引っ掛かる部分もあります。彼らは本当に「殺してもいい存在」なのか? この疑問を引きずったまま次の項目に行きたいと思います。
デスゲームという枠組
正当防衛
デスゲームについては前の記事で書いたので省略します。重要なのは、デスゲームというルールが設定された世界では他者を殺さないと生き残れない、というもの。
前項の「殺してもいい存在」が成立するのは、自分もまた殺される可能性があるという状態だからです。他者に命を狙われる状態なら正当防衛が成立する、というものです。
これを悪というつもりはありません。
ルールの外側へ行く試み
それより気になるのは、これらデスゲーム作品の走りである『バトルロワイヤル』に登場したハッキング集団(他に呼び名が思い付かない)です。理不尽なルールを押し付けられ、それでもそのルールに乗らずに脱出を図った連中。
彼らのような存在が『ダーウィンズゲーム』の中に存在したか? というと不思議に思います。
まぁそもそも設定に違いがあるので、そこに突っ込むのも野暮かもしれませんが。それでもルールに従順になっていないか? という疑問はあります。
その先のストーリー
このブログでは何度も名前を出していますが『魔法少女まどか☆マギカ』です。この作品にもデスゲーム的な要素が含まれていました。といっても最終話にチョロっと描写されるだけですが。
重要なのはデスゲームが存在したかどうかではなく、その後に起こったルールの改変です。おかしなルールならそれに従わずに反抗すればいい。
確かに『ダーウィンズゲーム』の一期はそういう終わり方になってと感じる部分はあります。自分たちでルールを定める、それは悪くないと思うんですが、ルールに反抗するよりデスゲームを楽しんでいるようにしか思えなかったのはなぜでしょう?
エンタメなのだから見せ場はないといけない、それは分かります。でもだからこそ、デスゲームの枠組をぶち壊してその先にあるものについて考えるべきではないのか?
そんな風に考えてしまいます。
閉塞感・変わらない社会
一度決まると中々取り消せない社会。日本という社会について度々言われる事です。決まった事を変えるのは大変だから、反発せずにその中で上手くやるのが良い。長い物には巻かれろ、等。
そういう意味ではデスゲームで生き残る事も、所詮は敷かれたレールの上を上手く渡っているに過ぎないのかもしれません。
そして考えてしまうのは彼らのその後です、「彼ら」とはデスゲームを生き残ったキャラクターたちです。
仮にデスゲームを生き残りその枠組を破壊するのに成功したとして、その後彼らは再び前の生活に戻れるのか? デスゲームの特殊性やスリルを体験してしまった、そしてその世界に過剰適応してしまった結果、以前の生活に戻れなくなるのでは……?
そしてギャンブル依存のように再びその世界に足を踏み入れる事になる、何て事まで考えてしまいます。
まぁこれは考え過ぎかもしれませんが。
ルールを作っても殺されない
現実社会はデスゲームとは違います、仮に受験戦争で負けたとしても人生は続く。それは残酷な事ではなく、ルールの見直しが出来る転機を貰ったと考えるべきです。
ルールを押し付ける奴は大概それ以外の事で上手く行っていない。だから自分の勝てるフィールドで威張るしかない。そんなのに付き合っても時間の無駄です。
何かで自分が負けたと思ったなら、自分なりのルールを作ればいい。自分が得意なもので勝負する、そうやって決められたルールの外側に行かないと、勝者と呼べる人間が一割も居ない殺伐とした社会が出来上がります。
と、アニメの話のはずが随分脱線しました。ここから先は書きません。
多様性
作品をディスっている訳ではありません。そもそもデスゲーム作品を観ておいてその構造が間違ってる! というのはラーメン屋に行ってラーメンしかない! と文句を言うぐらい理不尽です。
それでもまぁ、引っ掛かったんだから言わせてよ。どうせ直ぐに流れて行く電子データの一部に過ぎないんだからさ。
あ、そういえば主人公のグループは寄せ集めでした。それに対して敵対するグループは一族・郎党という感じ。
これは恐らく多様性を意識されていたんだと思います。だからそろいの服を着たりしない……、って思ってたら最後の最後に着やがったよ!
まぁ、見た目なんて大して関係ないとは思いますけどね。
にしても、『まどまぎ』から先の作品は中々生まれないなー。