アニメをっち

アニメの感想、持論などを好き勝手に書いております

野口健・グレタさんの件でちょっと

 

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 この記事を見てから引っ掛かっていたので書く。

 以前にもこういう突っ込みがあった、震災時の原発事故後にあった音楽フェスの時だ。そのフェスに対して「電気を使うな」という人が何人も居た(ように記憶している)。

 原発反対を訴えるなら電気を使うな、という趣旨なのだろうが何かモヤモヤが残った。この記事の内容も同類の突っ込みと考えていいだろう。

 

 それらの突っ込みの根本にあるのは、主張と行動の一貫性なのだと思う。発言と行動の内容は一貫しているべきだ、という考えだ。

 これに対してさっさと結論を言うと、周りが騒がしい時に自分一人が静かにしたところでその人たちは静かにしてくれますか? という事だ。むしろ周囲が騒がしいほど大声を上げなければいけないのではないか。

 まず手段を問う前に自らの意見を言うべきなのだ。そして周囲の人を変えていく。特に自分一人が行動したところで意味がない問題の場合はそうなるだろう。

 

 

(ここから先はこのブログの趣旨を守る為の文章なので別に読まなくても結構です)

 同じような問題として、表現と表現者というのがある。愛の歌を歌う人はその曲を売る必要があるのか? というものだ。誰かを愛していてその人に愛を伝えるなら売り物にする必要がないのではないか?

 個人的な話だが、ゼロ年代に流行った「お父さんお母さんありがとうソング」というのが大嫌いだった。言いたければ勝手に言えと周囲に毒を吐いていた記憶がある。

 だがあれも必要なのだ、そういう曲によって実際には両親に伝えられない感情を持った人たちが救われる。感謝の気持ちを実感できる。当時の自分には分からなかったが、そういった効果があったのだろう。

 そして一番の問題は、もし自己一貫性を持った人しか作品を作らなくなれば、世の中は「有名になりたい」「金を稼ぎたい」という作品だけしか出回らなくなってしまう。それは困る。

 

 色々な作品が見たい、ラブコメもサスペンスもSFも異世界ものも。確かに好きではない作品もあるし、とりあえずパンチラや裸を出せばいいというアニメには辟易する。

 それでもそういった作品が無くなって自分好みの作品だらけになったらこの社会は色々とお仕舞いだろうという自覚はある。それぐらい自分が好むのはニッチな作品だからだ(別にニッチだから好きという訳ではないが)。

 色々な作品が出て、その意外性で喜ばせて欲しいのだ。

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 だからまぁ、野口健という人を責める気は別にない。ちょっと大人気ない発言がありましたね、というぐらいだ。過去に何やらやらかしているらしいが、それなら元犯罪者は発言する権利がないという事になる。だから別に関係はない。

 あえて萌えという文脈から言う事があるのなら、「子供の揚げ足取ろうとして必死になってるおじさん可愛いw」ぐらいだろう。